月に4枚アルバムを買って、手記をつけて

[2003/04]

二十歳の頃から月に4枚アルバムを買うようになった。新作2枚、中古2枚で合計6000円くらいだったしさ。月に4枚買うなんて最初の頃は「こんな早いペースで、ちゃんと聴き込んでいるといえるのだろうか?」って心配だった。高校の頃はやっぱり月に一枚ぐらいだったから。けど、独り暮らしてたのもあって、家での生活の全てで音楽流してたから丁度よかった。必死に情報探しては、名作と言われるのを片っ端から聴いてたなぁ。そうやって月4枚ぐらいのアルバムを買うのが、何が一番イイって、、、個人的には、その時の自分自身の心情にピッタシな曲がその中に一つは絶対にあるって事だと思う。

だから二十歳以降については思い出の密度が違う。フッと思い出した時に、その頃良く聴いてた曲を流す事で、まるで昨日の事のように浮かんでくるモノがある。あたかも手触りや匂いまでが浮かび上がってくるようで・・・そんな瞬間は、他の方向を全て拒否して、R&Bだけ聴きこんでることを間違ってないと思えた。

けど、ホントにイイ曲は時間を超越する。何年もずっと聴きつづけるうちに、自分の中の人生を貫通するようになるから。そうやって、本気で好きな曲が出来上がっていくのだと思う。って、こんな感覚は、アルバム数百枚持ってる人に共通してると思う。歌だからこそ保存できる種類の記憶って確実にあると思うから。だから逆に、昔よく聴いたアルバムはわざと聴き直さない事もある。そこに納められた記憶を弱くしたくないから。

けど、本当の名曲だけは、何年聴き続けても記憶が弱くならない。そんなアルバムの数は多くないけれど、それこそが自分の人生を作っていると思う時はある。


けど、自分はそれ以外に日記をつけてるんだよね。それを言うと「いっがーーい」って言われるから、最近あんまり言わなくなった。これについては、高2の時の文集に、「色々考えてる事を、特別コーナーに書いてくれ」って言われて、《表情》などと一緒に書いたコトがある。17歳の頃だ。

「日記」

実は日記をつけている。意外といわれるんだが、つけはじめてもう三年分ぐらい、大学ノート四冊目に入った。日記といっても毎日書いている訳でなく、多くて週に2回ぐらい、中学のときは月に2回くらいだった。別に大したことを書いている訳でもない。思ったこと、感じた事を書いているだけなんだけど。

何故書いているのかは自分でもよく分からない。
けど自分なりの考え方は日記を書いているうちにまとまるし、はっきりしていく。漠然としたものも考えるときに考えていく。「別にはっきりさせなくても」とも思うけど、自分を動かしている、たまに自分でもコントロールできなくなる気持ちを自分になりに理解したいと思う。自分自身に責任を持つべきだと思う。理由が無いように見えることでも一年後に冷静になって見れば、いろいろ分かってくる。

自分が好きになれる人の数もかぎられているんだし、時間はいつでも過ぎていく。そのとき何も見えなかったからといって無駄扱いにするには、あまりにも人生は長くないし、やり直しもできないと思う。そんなに劇的なことをしているわけでもないし、華やかでもない僕はせめて身の回りに起こったことを、自分なりに理解するように努めて、自分を探して、何も実のない人生をおくってる中にも、自分だけには責任をとりたい。

書き始めたのは中一の5月6日 「天空の城ラピュタ」をテレビでみて感動したとき。僕はまた見たときにまた同じくらい感動できるのかとふと考えて、1日中悲しかった。感動できないならせめてこの気持ちを書いておこうと。

色々失って大人になっていくけど、失ったぶんだけ新たなものを見つけているんだろうか? 僕はたまに悲しくなるんだ。

あの頃は4冊目だったけど、今は20冊目になってる。っていうと本気で驚かれるけど、週にノート1枚くらいを続けて10年を越すと、大体そんな量になる。文章なんて書いた量で決まると思ってる面がある。最初から上手い人は誰もいないし、HPの為に言葉を探している訳じゃない。もっともの根本はこのノートだから。月に4枚アルバムを買って、手記をつけて、、、、そのスタンスは変わってない。

だから、昔の良く聴いてた曲と一緒に、その時に書いてた部分を読む。すると本当に全て再現できるようになる。そんな牛の反芻のような繰り返しが、これだけの硬さになってる。ただ二十歳の頃に書いたのを、今読み返すのは正直つらい。自分以外の人が読んだら、確実にヤバクなるんじゃないかと思う時もある。人は、完全には他人の人生を背負えないし、あの頃は自分でもギリギリ精一杯だったから。

これだけHPで書いていても、ノートに書くペースは変わらない。減っても無いし、増えてもない。それは全く別の種類の話だと思う。よく30%っていうけれど、それはこんな意味です。もし、「言葉で感情を表現するためにはどうすればいいんですか?」って聞かれたら、「とにかく書くこと」としか言えないんだよね。けど、普通はそこまでしてまで書く必要はない。誰か周囲で聞いてくれる人がいるもんだから。けど、人生の全てでそんな相手がいる訳じゃない。


日記というのは書くことに意味が有る訳じゃない。読み返す事に意味があるのだ。

あの頃は絶対に譲れないと思ってた事も、一年後に読み返すと、その書きなぐった言葉に違和感を感じ始める。二年後になったら、密かに自分が悪かったのかも、、、って思い始める。三年目になって、やっと自分の事実として言葉に出して言えるようになる。それは誰しもが辿る道。そうでない人は魅力が下がっていくのだから。けど、その時、その当時の気持ちを書きとめたモノが残っていれば、本気で自分の馬鹿さ加減に泣ける。淡くなった記憶を辿る事で受け入れやすくなる事は多い。けど、それだけで、いいのだろうか?って思うから。

昔に書いた文章は原色の風景。それが蘇る事で反省する以上の何かが見つかるから。

親友の一人も日記というほどのものじゃないけど、スケジュール帳に一言二言書いて、たまに読み返すって言ってた。そんな意味では、自分も日記をつけてるという実感はない。「単にたまにノートに書いてる」それが一番しっくりくる。毎日書くこともあれば、一ヶ月書かない事もある。日記が三日坊主になるのは、《毎日書かなくちゃいけない》って思いすぎるからだと思うな。最近は、E-mailの過去履歴が残るから、そんな意味ではいい傾向かもね、、って思う。ケータイのメールでもちゃんと保存しておけば、一年後に大きな意味を生めると思う。そのためには、PCに取り込んで保存したりする必要があるからめんどくさいが。いや、やっぱりちょっと文字数少なすぎるかな

よく、「過去を振り返らない」のが美徳という風潮があるけど、それには納得できないな。以前に、「私は後悔しないように振り返らずに前向きに明るく生きてるよ」って言われて、「だから深みが無くてちっぽけなんだろ」って言葉が喉まで出掛かった事があった。二十歳の頃だったら確実に口にだしちゃっただろう。後悔ってのは否定すべき話じゃないよ。男だろうが女だろうが後悔しない人に進歩はないと思う。もちろん、同じ失敗を二度しないと言えるのなら、過去を振り返る必要は無くなると思う。けど、突き詰めていくと、本人のクリティカルな失敗は全部似てる。人ってそういうものだと思うな。


「能動的に情景を浮かべようとしている」 ってのが自分の聴きこみ方だけど、それだけじゃ車の片輪でしかないと思う。「手記をつけて一年毎に読み直す」 この二つを3年続ければ、きっと開けてくる世界があると思うよ。

[2004/10/]

久しぶりにHDの中を整理してたら、この文章を見つけました。記憶が確かなら、「ノートを書くことも大事だよ」って言いたくて作ったんだと思う。けど、20冊という量が引かれるかなぁ、、、と思ってUPしなかった。けど、その後にBBSに書いたしね。だから、今回UPした事にしました。

逆に「自分はそれに依存してるんじゃないか?」って悩んだこともあった。だから数ヶ月わざと書かないようにした事もあったなぁ。今年から将来を見据えて?英語に切り替えたけど、殆ど自分の気持ちを表現できなくて、月1回も書いてません(爆

きっと「自分自身だけには責任をとりたい」って書いた部分は、17歳の時にも伝わらなかったし、今でもなかなか伝わらないと思う。自分というのを突き詰めて見えてくるのは、逆に周囲の相手んだよね。当然ながら、自分に関わった相手にも責任をとりたいけど、それが完全にできる訳じゃない。だからこそ、ケジメだけはつける。そんなスタンスだけど、ちゃんとケジメをつけれてない事も残ってるなぁ。ほんと。

文集に書いた内容はこちら

Home